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ハノイ - ベトナムの首都

ハノイ(ベトナム語: Thành phố Hà Nội , 漢字:城舖河內)は、ベトナム社会主義共和国北部に位置する都市で、同国の首都。南部ホーチミン市に次ぐ同国第2の都市であり、政治と文化の都である。

地名の「城舖河内」は、当時の街(現在のホアンキエム・バーディン・ドンダー・ハイバーチュンの4区にほぼ相当)が紅河とトーリック川(蘇瀝江)とに囲まれていたことに由来する。2009年の人口は650万人。紅河の右岸にあり、国内の工業の中心地で、農産物の集散地ともなっている。また、一柱寺など史跡も多い。東南アジア有数の世界都市であり、ホーチミン市がベトナム経済の中心地である反面、ハノイはベトナムの政治・文化の中心地と言われることが多い。


ホアンキエム湖(ベトナム語: Hồ Hoàn Kiếm / 湖還劍)は、ベトナムのハノイにある湖の1つである。

歴史

詳細は「ハノイの歴史」、「vi:Biên niên sử Hà Nội」、「en:Timeline of Hanoi history」、および「gl:Historia urbana de Hanoi」を参照

ハノイがベトナムの中心都市となったのは、7世紀頃のことである。唐代には雲南と南シナ海を結ぶ交易路上にあったこともあり、安南都護府がおかれ唐による南方支配の拠点となった。唐末に安南都護府の支配は形骸化し、さらに紅河が当時の海上交易網から外れていったため、その重要性は一時低下した。しかし、11世紀の李朝はこの地を都と定め、農業地帯を統治する拠点とした。李朝の成立以降、1802年に阮朝がフエに都を移すまで王都として繁栄。その間は昇竜(タンロン)、東京(ドンキン、トンキン)、東都(ドンドー)など様々な名で呼ばれてきたが、1831年に現在の名称になった。1873年にはフランスに占領され、1887年以降はフランス領インドシナの中心地となった。

1940年、大日本帝国陸軍の仏印進駐により、大日本帝国の事実上の占領下となるが、1945年(昭和20年)8月15日に、その占領状態は終了し、9月2日にハノイでベトナム民主共和国(北ベトナム)の独立が宣言された。その後、1946年から1954年の第一次インドシナ戦争においては、ハノイも戦場となり、一時フランス軍が占領した。しかし、ベトナム側が戦争に勝利したことにより、ハノイはベトナム民主共和国の首都となった。

ベトナム戦争中は、橋などの交通施設を中心にアメリカ軍の爆撃を受けた。1976年には南北ベトナムの統一に伴い、ベトナム社会主義共和国の首都となった。

2010年は、1010年に李太祖が、ハノイに遷都して1000年目にあたることから様々な記念行事が行なわれた。同年10月10日には軍事パレードも行なわれている[1]。

2019年のアジア競技大会の開催地になっていたが、経済的理由で開催を辞退した。

 
ハノイ(1926年)

行政

2008年5月29日、ハタイ省全域とヴィンフック省メリン県、ホアビン省ルオンソン県の4村 (Đông Xuân, Tiến Xuân, Yên Bình, Yên Trung) がハノイに合併されることが決定し、2008年8月1日に合併した。この合併により面積は約3.6倍、人口は約2倍となった[2]。同年12月11日、旧ハタイ省のうち省都であったハドン市を区(Quận, 郡)とし、ソンタイ市を「市社」(thị xã, 市社。日本語では「市」との訳もある)とすることが決定された。

ハノイは10区、18県 (Huyện, 縣)、1市社 の計29の行政区から構成されている。


ハノイの夜

 気候

亜熱帯性の温帯夏雨気候にあたる。冬でも温暖であるが、大陸からの寒気の影響で曇りがちの日々が続く為、日照時間は多くない。

経済

2009年のハノイの平均年収は、3180万ドン(約13万円)であり、ベトナムの平均年収の1930万ドン(約8万円)より65%程水準が高い。